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熊野古道「中辺路」滝尻から熊野大社まで往く歩き旅(一日目:後編)

歩く

熊野古道「中辺路・滝尻から熊野大社」を歩く

熊野古道でも滝尻から熊野本宮大社までは、もっとも人気のある黄金ルート。
その中辺路を歩いた記録です。
今回は滝尻王子から継桜王子までの後編です。


http://www.hongu.jp/kumanokodo/


http://www2.tb-kumano.jp/kodowalk/pdf/2-p06-07.pdf

食事休憩後、最初に現れたのは十丈王子
十丈峠の杉林のなかにあり、江戸時代には付近に数戸の家があったとされています。

重點(十丈)王子跡
この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は「重點」、王子社名は「重點王子」と書かれています。天仁二年(1109)十月二十四日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。重點王子の名は、建仁元年(1201)十月十四日、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日に「重點原」で昼食をとり、この王子に参詣しています。江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれてるようになった理由ははっきりしません。かつてこの峠には、茶屋などを営む数件の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後、下川春日神社(現、大塔村下川春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。
田辺市教育委員会

十丈峠、こんな道を登ったり下ったりします。

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ちょうど半分の距離を歩いています。

標高761mの悪四朗山を下って行くと、上多和茶屋跡がありました。
そんな茶屋があったころに歩きたかった思うようなところです。

上多和茶屋跡
この山上は、上多和と呼び、標高約600m。熊野詣の盛んな頃は、ここに茶店もあったといわれ、大正期にも人家があって林中には、三界万霊塔やお墓もある。
また、この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三体の月が現れるとの伝承があり、ここにあったしめ掛け松のもとに大勢集まり粟や黍の餅を供え、心経をくり、月の出を待ったという。三体月は、「熊野権現垂迹縁起」の伝承の中にもみられる。

逢坂峠
「旅人の徒歩行き交ひしげきとき 父祖ここに住み茶屋いとなめり」 花仙

大阪元王子

大坂本王子跡
大坂(逢坂峠)の麗にあるところから、この王子社名が付いたようです。天仁二年(1109)十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この坂を「大坂」とし、「坂中に蛇形の懸った大樹がある。昔、女人が化成したと伝えられる」と、日記に書いています。建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、十月十四日にこの王子に参拝しています。また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日にこの王子に参拝しています。江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、寛政十年(1798)ごろには小社がありました。現在、跡地にある石造の笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子(もとは剣ノ山の上)や大門王子などにも同様のものがあります。
田辺市教育委員会

普通の格好の人が何人か居ました。
もう少し先を進むと国道に道の駅があ、ここから歩いているようです。

次に現れるのが、人気のスポットとなっている牛馬童子像
女性二人組さんと一緒になりました。

箸折峠の牛馬童子
箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、またお食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この土地が近露という地名になったという。ここの宝篋印塔は鎌倉時代のものと推定され、県指定の文化財である。石仏の牛馬童子は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。そばの石仏は役ノ行者像である。

滑りやすい石敷の坂を下り、眼下には近露の町。
町が見えるとちょこっとだけ安心します。

ここからしばらくは舗装された町中の道となりました。
日置川に架かる北野橋から。

ほどなく、近露王子

近露王子跡
国史跡 平成十二年十一月二日指定
永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月二十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近湯」と書くようになります。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参詣していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女陰は四月二十九日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参詣しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。
田辺市教育委員会

ここで地元の方が熊野古道に関してアンケート調査を行っていました。
アンケートに答えると、オリジナル絆創膏がもらえました。

近露の町
なかなかよいところです。

すぐ近くには野長瀬一族のお墓があります。
野長瀬一族とは、南北朝時代に熊野に逃れた護良親王を助けた近露の豪族です。

近露から継桜まではこんな道が続きました。

近露から約1時間、比曽原王子に着きました。
石碑があるだけでした。

こんな道を20分ほど歩くと・・・

この日の終点、継桜王子です。

継桜王子
藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に継桜の樹あり、木は檜で、誠に希有なこと」と、日記に記しています。檜を台木とした桜が成長していたものとみられます。建仁元年(1201)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、あるいは承元四年(1210)四月、修明門院に随行した藤原頼質の日記には、「続桜」王子とありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。ただし、藤原忠宗の参詣記では、仲野川(現、野中川か)を何度か渡るように記していますので、この王子社はその後現在地に移されたことも考えられます。江戸時代には若一王子権現とも呼ばれ、また、社前の桜樹は「接桜」、更には「秀衡桜」ともいわれて名木となっていました。王子社から約百メートル東にある現在の秀衡桜は何代目かにあたり、明治中期に植えられたものです。明治時代には王子神社となり、末期に近露の金比羅神社(現、近野神社)に合祀されましたが、社殿は残り、後に神体も戻されました。境内にある九本ほどの杉の大木は、枝がすべて南向きに伸びているため、「一本杉」と呼ばれています。神社合祀の際に、南方熊楠らの保存運動によって残され、現在はこの神社に奉納される「野中の獅子舞」とともに、県の文化財に指定されています。
田辺市教育委員会

とがの木茶屋
この日はお茶屋さんとしてはやっていないようでした。残念。

野中の清水。

朝7時半より歩き始めて、7時間でした。
距離は18.4Kmでした。

ここから駐車場のクルマに戻って、渡瀬温泉のキャンプ場に行きます。

ところがこのキャンプ場はオートキャンプ場では無いようで、テントを持ってきていないと泊まれないと言われました。
今回はお風呂だけいただきました。

途中、めはり寿司を食し・・・

道の駅「奥熊野古道ほんぐう」へ。
宿泊禁止でしたが、仮眠はOKです。
もちろん私は仮眠です。
向かいのAコープでビールとチューハイを買い、いい気分で18時就寝。

寝付かれないかなと思いましたが疲れていたせいでしょう、翌5時までグッスリ眠れました。
本当は4時起きの予定だったので、翌日曜日は朝食抜きとなりました。

 

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