スポンサーリンク

熊野古道「中辺路」熊野大社から那智大社まで往く歩き旅(小雲取越:前編)

歩く

熊野古道「中辺路・雲取越え」を歩く

熊野古道「中辺路」の派生ルートであるいわゆる「雲取越え」(熊野本宮大社から那智大社まで)を歩いた記録です。
今回は熊野大社(請川)から小口までの小雲取越え(前編)です。

http://www.hongu.jp/kumanokodo/


http://www2.tb-kumano.jp/kodowalk/pdf/oogumo.pdf

2012年11月24日(土)
新宮から熊野本宮大社へのバスは始発が7時5分で次が8時40分。本宮大社に到着が8時半に10時。
本宮大社や大斎原を廻って小雲取越の入り口である請川までの5Km弱を歩くと、たっぷり1時間半、いや2時間は掛かるだろう。ビジネスホテルの7時半からの無料朝食は諦めるしかない。泣く泣く朝食は諦めて、5時起きの6時半のチェックアウトとなりました。

早朝の新宮駅

熊野交通のバスに揺られて、1時間20分後に本宮大社へ到着。
太陽も顔を覗かせる。

熊野本宮大社にて、今旅の安全を祈願します。

本宮大社参拝後は、大斎原(おおゆのはら)へ。

神が舞い降りたという大斎原。近年はパワースポットとして多くの人が訪れています。
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。

熊野本宮大社 旧社地「大斎原」

国道168号を歩いて請川まで。途中、お弁当など買いながらトボトボ歩きましたが、思っていた以上に遠かった…。
ここが入り口となります。

民家の庭先をかすめ、熊野古道へ。

人が多いと嫌だと思っていたが、誰にも合わないので何だか心細い…。

松畑茶屋跡

熊野参詣道中辺路の派生ルート「大雲取」「小雲取」沿道には、茶屋などの跡が数多く遺されており、「松畑茶屋跡」もその一つである。
現在も、広い平坦地に高い石段を積んだ屋敷跡が二段にあり、墓地の跡もある。
元文4年(1739)の『熊野めぐり』には「松畑茶屋とて四、五軒も有。」と記されている。

まだまだ、自撮りするくらい元気です。

この辺からやっと人と出会う。

百間ぐら
小雲取越最高のビュースポット。
「おおっ」と思わず声をあげてしまう。ただ、思っていたより狭いところだった。

百間ぐらから少し歩いたところで昼食。
本宮大社から請川までの途中で買った何でもないお寿司だが、とても美味しい。

若い僧が狼に襲われ喰われたという賽の河原地蔵

そしてしばらく行くとあるのが石堂茶屋跡

元文4年(1739)の『熊野めぐり』には「石堂峠」として、茶屋が2軒あり旅客を泊めていた、と記されている。
また、寛永10年(1789)の『熊野詣紀行』では「さハのたわ茶屋」と読んでいる。嘉永元年(1848)の『西国三十三所名所図会』には「石砥茶屋」とあり、山中から砥石がとれたため名づけられたとの記述がある。
茶屋跡の中央付近には、枝が連なった桜(連理桜)の顕彰碑も建つ。
敷地の北側には水場、西方には茶屋の人々の墓石も残っており、往時の生活を偲ぶことができる。

小雲取越:後編に続く

コメント